
御由緒

三河から江戸へ
三河から江戸へ

三河国碧海郡上野稲荷山隣松寺略縁起

仰も当山鎮守の稲荷大明神は、弘法大師一刀三礼の神像なり。元当山も淳和天皇御宇、当国鎮護のため開基ある所なれば、万民豊楽五穀成就の為、此の神像を洛陽より移し、寺内に安置し、所願円満の像と名付けしより今に至り当山の山号となす事、その久敷事千年に及びぬ。
されば東照宮様にも神徳を仰がせられ、一向宗一揆にも、先此神前に御祈願を籠めさせられし所、直に御利運及びしかば、偏に神徳のいちじるしく、二世の大願たのみありと、御自像をも此社の内に御相殿と仰せ出され、猶追って御造営あらせらるべき旨にて、先当座の神供と百石の地を賜りしに、追追御事しげく、御忘れさせられにしや。

遊歴雑記

東部本郷元町清光院(浄土)は鎮西派にして等正・広安の両寺に隣る。門に嶺松山といえる額を掲たり、即華頂知恩院大僧正順真(麗誉)書としるせり。
当時の本堂の前左側に三河稲荷といふあり、世俗奴僕稲荷ともいえり、拝殿は三間四方に作り小社をば九尺四方の土台に作れり、花表・手水鉢・燈籠など最物寂たり。敢て拝殿の格子戸より覗きみれば矢を背負る両大臣左右にあり、釣下たる神燈一基諸の神具、就中若干の絵馬は拝殿の柱より一面に打ち付けたるは霊験著明きやらん、即正一位三河稲荷大明神と号す。
伝えいふ、むかし神祖御入国の砌公の聖徳を慕い奉り、猶も御武運を守らんとて遥々の三河の国より付添まいらせ、奴僕に身をやつし御小人・御中間の中に打交り御同勢の中に囲れ江戸へ下りし狐なるが故に、三河いなりとも奴僕稲荷ともいふ。