家康公が先勝祈願したと伝わる稲荷社

「三河国碧海郡上野稲荷山隣松寺略縁起」読み下し文より
仰も当山鎮守の稲荷大明神は、弘法大師一刀三礼の神像なり。元当山も淳和天皇御宇、当国鎮護のため開基ある所なれば、万民豊楽五穀成就の為、此の神像を洛陽より移し、寺内に安置し、所願円満の像と名付けしより今に至り当山の山号となす事、その久敷事千年に及びぬ。
されば東照宮様にも神徳を仰がせられ、一向宗一揆にも、先此神前に御祈願を籠めさせられし所、直に御利運及びしかば、偏に神徳のいちじるしく、二世の大願たのみありと、御自像をも此社の内に御相殿と仰せ出され、猶追って御造営あらせらるべき旨にて、先当座の神供と百石の地を賜りしに、追追御事しげく、御忘れさせられにしや。
愛知県豊田市の隣松寺境内にある稲荷社は、松平広忠が竹千代(のちの徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願したと伝わります。徳川家康は三河一向一揆に際し稲荷社に戦勝祈願し、勝利後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納するとともに朱印地30石を寄進しました。その後、天正18年(1590年)の江戸入国に際して、社を吹上に造営奉遷されました。
