本郷元町の氏神さまとして鎮座

「新撰東京名所図会 第四十九編」三河稲荷神社より(東陽堂発行 明治四十年)
無格社三河稲荷神社は、本郷元町二丁目六十番地に鎮座す、祭神は宇迦魂命なり、浄土宗昌清寺元と之が別当たり。
天正年中御(江戸)入国の時、御譜代御仲間の面々信託を蒙りて氏神となし、組屋敷の内に社を造営す、其後駿河台へ所を移され慶長十一丙午年(1606年)当寺境内に移し、組中の氏神と尊敬し奉る。
霊験言葉に尽し難し、享保十六年(1731年)辛亥二月中氏子中志をつくし、正一位に叙位し給ふなり、寛永二酉年(1625年)七月十九日の類焼に、縁起等消失すとなり。
慶長以来、町内の鎮守として、昌清寺中に祭祀しありしを、明治二年(1869年)神仏混淆の禁令に遇い、昌清寺と分離して、別に同町二丁目三番地に遷座し、約二百坪の地を以って其の社地と定めたり。
明治二十六年(1895年)同所が本郷給水工場敷地として使用せらるるに及び、民家と共に取払はれ、同年方今の地に転ず、本社拝殿並びに神楽殿の再営あり。
広前の狛犬(天明年号)、漱石盤(嘉永年号)を移置し、五月花崗石の鳥居を建て、翌年石燈籠一対寄進あり、境内の設備漸く整う、三十三年六月有志醵金して前面に鉄の玉垣を造る。氏子は元町一丁目二丁目を通じて元町全部之に加はり居りしも、其後湯島神社に属し、今や二丁目に限られる。
大祭は毎年六月一日二日の両日なり、根津神社の受持にして、社掌は横山全和といへり、十三代継承すと。

慶長11年(1606年)仲間が拝領の大縄地に移住したとき大縄地の氏神として奉遷されました。元禄7年(1694年)に町地になると本郷元町と改称され、一丁目と二丁目の氏神として鎮座しました。
慶長以来、町内の鎮守として浄土宗 昌清寺内にて祭祀していましたが、明治2年の神仏混淆の禁令によって昌清寺と分離し、元町二丁目三番地に遷座しました。その後、明治26年3月に本郷給水所が設置されることになり、現在地に遷座されました。大正12年(1923年)9月の関東大震災によって全焼しましたが、氏子崇敬者の方々の篤い御寄進によって、大正13年6月に本殿・拝殿・神楽殿・社務所が完成しました。
「本郷いまむかし」飯塚文治郎著 昭和五十三年(三河神社より)
本郷三丁目をお茶の水に向って右側一つ目の横丁を俗に大横丁という。ここの土地は慶長年間西丸坊主吉野久円の街並屋敷であった。
この大横丁を俗に三、九さまといって最近まで夜店などが開かれて賑かな所で、特にこの土地の大部分が戦火に逃れた処で、三河神社を中心にした土地発展策のためでもあろう。
ここの通りを左に這入った処に三河神社がある。昔は三河稲荷社と呼んでおった。祭神は宇迦之魂命である。