三河から江戸へ

「遊歴雑記」1812年~1818年
(本郷元町清光院内の三河稲荷より)
東部本郷元町清光院(浄土)は鎮西派にして等正・広安の両寺に隣る。門に嶺松山といえる額を掲たり、即華頂知恩院大僧正順真(麗誉)書としるせり。
当時の本堂の前左側に三河稲荷といふあり、世俗奴僕稲荷ともいえり、拝殿は三間四方に作り小社をば九尺四方の土台に作れり、花表・手水鉢・燈籠など最物寂たり。敢て拝殿の格子戸より覗きみれば矢を背負る両大臣左右にあり、釣下たる神燈一基諸の神具、就中若干の絵馬は拝殿の柱より一面に打ち付けたるは霊験著明きやらん、即正一位三河稲荷大明神と号す。
伝えいふ、むかし神祖御入国の砌公の聖徳を慕い奉り、猶も御武運を守らんとて遥々の三河の国より付添まいらせ、奴僕に身をやつし御小人・御中間の中に打交り御同勢の中に囲れ江戸へ下りし狐なるが故に、三河いなりとも奴僕稲荷ともいふ。
本郷区史 第二偏 本郷区通史(徳川時代の本郷より)
斯くて関東太守に封じられたる徳川家康は小田原を発足し、途中三日を費やして、天正十八年八月朔日、旗鼓堂々初めて江戸に入城した。世に之を関東後入国、又江戸御内入とも称する。我が本郷の三河稲荷は此の時家康を影護し来れる白狐を吹上に祀ったものと伝えられる。