歴史
- 「三河国碧海郡上野稲荷山隣松寺略縁起」読み下し文より
- 仰も当山鎮守の稲荷大明神は、弘法大師一刀三礼の神像なり。元当山も淳和天皇御宇、当国鎮護のため開基ある所なれば、万民豊楽五穀成就の為、此の神像を洛陽より移し、寺内に安置し、所願円満の像と名付けしより今に至り当山の山号となす事、その久敷事千年に及びぬ。
- されば東照宮様にも神徳を仰がせられ、一向宗一揆にも、先此神前に御祈願を籠めさせられし所、直に御利運及びしかば、偏に神徳のいちじるしく、二世の大願たのみありと、御自像をも此社の内に御相殿と仰せ出され、猶追って御造営あらせらるべき旨にて、先当座の神供と百石の地を賜りしに、追追御事しげく、御忘れさせられにしや。
- 「遊歴雑記」1812年~1818年(本郷元町清光院内の三河稲荷より)
- 東部本郷元町清光院(浄土)は鎮西派にして等正・広安の両寺に隣る。門に嶺松山といえる額を掲たり、即華頂知恩院大僧正順真(麗誉)書としるせり。
- 当時の本堂の前左側に三河稲荷といふあり、世俗奴僕稲荷ともいえり、拝殿は三間四方に作り小社をば九尺四方の土台に作れり、花表・手水鉢・燈籠など最物寂たり。敢て拝殿の格子戸より覗きみれば矢を背負る両大臣左右にあり、釣下たる神燈一基諸の神具、就中若干の絵馬は拝殿の柱より一面に打ち付けたるは霊験著明きやらん、即正一位三河稲荷大明神と号す。
- 伝えいふ、むかし神祖御入国の砌公の聖徳を慕い奉り、猶も御武運を守らんとて遥々の三河の国より付添まいらせ、奴僕に身をやつし御小人・御中間の中に打交り御同勢の中に囲れ江戸へ下りし狐なるが故に、三河いなりとも奴僕稲荷ともいふ。
- 本郷区史 第二偏 本郷区通史(徳川時代の本郷より)
- 斯くて関東太守に封じられたる徳川家康は小田原を発足し、途中三日を費やして、天正十八年八月朔日、旗鼓堂々初めて江戸に入城した。世に之を関東後入国、又江戸御内入とも称する。我が本郷の三河稲荷は此の時家康を影護し来れる白狐を吹上に祀ったものと伝えられる。
- 三河から江戸へ
- 愛知県豊田市の隣松寺境内にある稲荷社は、松平広忠が竹千代(のちの徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願したと伝わります。徳川家康は三河一向一揆に際し稲荷社に戦勝祈願し、勝利後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納するとともに朱印地30石を寄進しました。その後、天正18年(1590年)の江戸入国に際して、社を吹上に造営奉遷されました。
- 「新撰東京名所図会 第四十九編」三河稲荷神社より(東陽堂発行 明治四十年)
- 無格社三河稲荷神社は、本郷元町二丁目六十番地に鎮座す、祭神は宇迦魂命なり、浄土宗昌清寺元と之が別当たり。
- 天正年中御(江戸)入国の時、御譜代御仲間の面々信託を蒙りて氏神となし、組屋敷の内に社を造営す、其後駿河台へ所を移され慶長十一丙午年(1606年)当寺境内に移し、組中の氏神と尊敬し奉る。
- 霊験言葉に尽し難し、享保十六年(1731年)辛亥二月中氏子中志をつくし、正一位に叙位し給ふなり、寛永二酉年(1625年)七月十九日の類焼に、縁起等消失すとなり。
- 慶長以来、町内の鎮守として、昌清寺中に祭祀しありしを、明治二年(1869年)神仏混淆の禁令に遇い、昌清寺と分離して、別に同町二丁目三番地に遷座し、約二百坪の地を以って其の社地と定めたり。
- 明治二十六年(1895年)同所が本郷給水工場敷地として使用せらるるに及び、民家と共に取払はれ、同年方今の地に転ず、本社拝殿並びに神楽殿の再営あり。
- 広前の狛犬(天明年号)、漱石盤(嘉永年号)を移置し、五月花崗石の鳥居を建て、翌年石燈籠一対寄進あり、境内の設備漸く整う、三十三年六月有志醵金して前面に鉄の玉垣を造る。氏子は元町一丁目二丁目を通じて元町全部之に加はり居りしも、其後湯島神社に属し、今や二丁目に限られる。
- 大祭は毎年六月一日二日の両日なり、根津神社の受持にして、社掌は横山全和といへり、十三代継承すと。
- 本郷元町に鎮座
- 慶長11年(1606年)仲間が拝領の大縄地に移住したとき大縄地の氏神として奉遷されました。元禄7年(1694年)に町地になると本郷元町と改称され、一丁目と二丁目の氏神として鎮座しました。
- 慶長以来、町内の鎮守として浄土宗 昌清寺内にて祭祀していましたが、明治2年の神仏混淆の禁令によって昌清寺と分離し、元町二丁目三番地に遷座しました。その後、明治26年3月に本郷給水所が設置されることになり、現在地に遷座されました。大正12年(1923年)9月の関東大震災によって全焼しましたが、氏子崇敬者の方々の篤い御寄進によって、大正13年6月に本殿・拝殿・神楽殿・社務所が完成しました。
- 「本郷いまむかし」飯塚文治郎著 昭和五十三年(三河神社より)
- 本郷三丁目をお茶の水に向って右側一つ目の横丁を俗に大横丁という。ここの土地は慶長年間西丸坊主吉野久円の街並屋敷であった。
- この大横丁を俗に三、九さまといって最近まで夜店などが開かれて賑かな所で、特にこの土地の大部分が戦火に逃れた処で、三河神社を中心にした土地発展策のためでもあろう。
- ここの通りを左に這入った処に三河神社がある。昔は三河稲荷社と呼んでおった。祭神は宇迦之魂命である。